「名古屋大学農学部創設発展跡地之碑」は、1951年から1966年まで名大農学部があった旧安城キャンパスの跡地、安城市総合運動公園(安城市新田町)に2006年に建てられました。
2005年6月に開催された農学部第1回卒業生の卒業50周年祝賀会をきっかけに記念碑建立の提案がなされ、瓜谷郁三名誉教授から安城市長に対し、農学部跡地への記念碑建設の要望書が提出されました。「日本デンマーク」と呼ばれた安城市(当時安城町)は、農学部を熱心に誘致し附属農場も安城町の提供によるものでした。記念碑建設に際しても安城市のご好意により敷地が無償貸与されています。
農学部同窓会では、農学部の基礎を築いた安城時代の記憶を後世に伝えるものとして、記念碑を大切に守っていきたいと思います。
平成13年3月発行のセコイア通信に掲載された「記念樹は今」は当時の同窓会長であった巽 二郎氏によるもので農学部でもっとも古い記念樹として三本のメタセコイアが紹介されています。その後、「記念樹は今」は平成13年12月に発行のセコイア通信特別号、平成14年3月号、平成15年3月号と連載が続いております。
同窓生のみなさまにはお手元に届きました会報にてお楽しみいただいていると存じますが、同窓会の愛称にも関係するこの連載をホームページ上でゆっくりお楽しみ頂けるよう、まとめることとしました。それでは、すでに読まれた方も、そうでない方も農学部の記念樹をめぐる物語をお楽しみ下さい。
記念植樹は楽しい作業である。しかし植えるときは熱心に緑の成長を願うのだが、いつの間にか人々の記憶が薄れ、その木がなぜその場所に生えているのか忘れがちとなる。
さて今回は農学部でもっとも古い記念樹である3本のメタセコイアについて触れよう。この木は農学部の第1回卒業を記念して1955年に安城キャンパスに植えられた。その後農学部の東山に移転にともない1966年に現在地 (事務・図書棟の西側) に移されている。移植当時の樹高は約10m弱であった (農学部30年誌による) という。場所を得たのか3本の木は今ではそれぞれ胸高直径63、48、48cmに育っており、樹高は農学部の建物を越えている。3角形の配置で植えられているが、南端の木がもっとも大きい。株もとに立つと45年の年輪を感じさせる風格がある。亭亭とそびえる3本のメタセコイアは記念樹にふさわしく農学部のランドマークとなっている。
空に向かって端正に伸びている樹冠を見ていると、この木を植樹された先輩諸氏の思いがよみがえるようである。しかし、残念ながらこの木々が記念樹であることを知る在校生は少ないようである。北米西部に自生するセコイア (レッドウッド) は世界一の巨木であり、長寿で知られている。東山の不老の地につどう農学部同窓会もこのセコイアのようでありたいものである。今回の同窓会報の愛称である「セコイア通信」は、これにあやかっている。
同窓会長 巽 二郎
昭和 30 年 (1955)、農学部の第 1 回卒業生が巣立ったのであるが、その同期会を彼等は「青雲会」と名付けた。全国から選ばれて集まった教官と教養部から厳しい教育を受けた学生達は旺盛な研究と勉学意欲を持っていて、パイオニア的精神を発揮した。私は若い日にカリフォルニア大学バークレイ・キャンプアスに留学した。Life Science Library から分離されて、新しい Biochemical Library が竣功した時、直ちに出掛けて、たまたま学位論文の書棚で図らずも第 1 回卒業生の志知均君 (化) の論文を手に取った。彼は当時まだ少なかったが、アメリカに留学して、この大学で博士学位試験 (アメリカでは論文審査の口頭試験は我国よりも遥かに厳しい) に合格した。
その青雲の志を知り感激した。一期生達は、中国でメタセコイアが既に発見されていたことも知り、真っ直ぐ伸びるメタセコイアを記念樹とすることに全員が賛同されたと当時の方々が語る。メタセコイアを人手するのに、造林学の高原末基教授にお願して束京大学農学部附属清澄演習林 (当時) から戴くことになった。高原先生はその演習林長から名古屋大学教授に赴任された方であった。先生にお願いしたのは筆者 (保田) であったと、渡辺徹一期生が証言された。私は林学の卒業生がこのことに絡んでいると思ったが、林学には卒業生がいなかった (農3、林O、畜4、化14) ので、私だけのお願いであったようだ。送られてきた苗の薦を解く時に私も立ち会った。その 1 メートル足らずの苗を見たとき、私は直ぐ一つの疑問を感じた。当時農字部の校庭と北部中学校の境に小さな池があり、その周りにヌマスギが植えられていた。メタセコイアとヌマスギとの区別は難しく、京都大学から大阪市大の植物学教授になられた三木茂教授に手紙でメタセコイアとヌマスギの小枝のさく葉標本を送り教えを乞ふた。早速お返事を戴き、メタセコイアに問違いないことを確かめた。三木博士は球果を橋本市の、小枝を土岐市の陶土の採掘地で採集し、ヌマスギ属ともセコイア属とも異なることから、1941 年に新たにメタセコイア属 (Sequoia の属名はアメリカ・インディアンの G. G. Sequoia による) を起こし、Metasequoia disticha (二列性) Mikiの学名を発表した。中国で生きている化石として発見されたメタセコイアに、胡と鄭両教授が研究して Metasequoia glypto-stroboides (水松に似る) Hu et Cheng の学名を1989年に与えた。
我が国にメタセコイアがもたらされたのに二つのルートがある。
ハーバード大学の樹木園長の E. D. メリル教授から東大の原寛教授に1948 年の秋に採種したメタセコイアの種が送られて、1949 年の春に原教授が蒔いて数本の苗を得た。その一木が小石川植物園の正門近くに今も成長を続けている。
1949 年にカリフォルニア大学バークレイの R. W. チェイニー教授から昭和天皇陛下に献上された苗は吹上庭園に植えられ、陛下が生前愛されてアケボノスギと名付けられた。1950 年 2 月、チェイニ一教授から更にバークレイで育てた 100 本の苗木が原教授に送られ、東大と京大に各 50 本が配布された。前述の清澄演習林に 4 本が配布された。名大農の記念樹はこのルートに由来する。1966 年の農学部の移転に際して、記念樹を移植することになった。安城に植えてから11年めの樹木を移植することに時期的に不安があったので私は密に挿し木をした。東山に植えたメタセコイアは、立派に成長を始めたので、挿し木した苗を処分するに当たり、その一本を白宅の庭に植えた。それが大木になり隣に迷惑をかけるので、木方洋二教授にお願いして教材に使って欲しいと申し出た。木方先生からメタセコイアの含水量は、我が国の樹木よりもはるかに多いと教えて頂いた。この含水量の多いことが中国の奥地で長く生き延びて来た原因の一つかもしれないと私は思っている。
今度調べてみて分かったことは、メタセコイアの球果の鱗片の数が、農学部の記念樹のものと医学部の並木道のものとで異なることを知った。農学部の球果の鱗片は 4 と 5 が半々であったのに反し、医学部のものでは 4、5、6、7 片でその内、5 と 6 片のものが多かった。また前者は小型で後者は大型であった。両者ともほぽ樹齢が同じであるので、これらの差異は、我が同にもたらされた二つのルートの差によるもとも思われるが、なお足を使って各地で多くの球果を集めて観察しなければならないと思う。私にはその時問がもう残されていない。
名古屋大学名誉教授 保田幹男
このシリーズ前回の保田名誉教授のお話によって、名大農学部の第1回卒業生(1955年)植樹の3本のメタセコイアの由来がほぼ解明された。つまり、一期生はメタセコイアを記念樹とすることに賛同し、その苗木(樹高1m足らず)が名大農学部造林学講座の高原末基教授を通じて東京大学付属清澄演習林からもたらされたということです。「生きている化石」の発見に世粋中が沸いていた頃です。
中国奥地におけるメタセコイア現生種の発見以降の、世界における本種の拡散は急速です。1944年にはじめての標本採取、1948年の新種同定から、世界各地に種子が配布されるまでわずか数年しかたっていません。1949年に日本ではじめての苗木が東大小石川植物園と皇居吹上御殿に植えられました。本農学部に植樹されたのはこの6年後ということになります。
メタセコイアは丈夫で成長が早く、しかも挿木繁殖が容易ですので、急速に普及しました。現在各地の公園や学校などで時折見かけるメタセコイアの大木はこの頃に植えられたものでしょうか。最初に発見された自生地の四川省磨刀渓の1本は高さ29m以上、根回りが直径3.3mあり、推定樹齢450年、神木とされていました。これから考えると条件が良ければ日本のメタセコイアはまだまだ大きくなりそうです。
斎藤清明氏著の中公新書「メタセコイア」によると、「生きている化石」の発見から日本への導入までの経緯は次のようになっています。
ところで、農学部同窓会報の「セコイア通信」という愛称について、会員の浅井武重氏(第八回農芸化学卒)から貴重なご意見をいただきました。それはセコイアとメタセコイアは別種の植物であり、混同をまねきかねないというご指摘でした。そこでこの機会に「セコイア通信」の愛称に至った経過を説明させていたださます。ご指摘のようにセコイアとメタセコイアは別種とされています。最大の違いはセコイアが常緑であるのに対してメタセコイアが落葉することです。セコイアはアメリカ西岸山脈に巨木が生育しており、材が赤いのでRedwoodと呼ばれています。近接種としてこれも巨木のセコイアデンドロンがあります。私はかつてセコイア国立公園でセコイアの森を見学する機会を得ましたが、全く圧倒されました。ジェネラル・シャーマンと呼ばれる最大の木は高さ83m、幹周り25mもあり樹齢は3500年ともいわれています。「セコイア通信」という愛称は、このすばらしい巨樹のセコイアのイメージと農学部の記念樹であるメタセコイアの名称をオーバーラップさせたものです。さらにセコイア樹の長寿と「不老町(農学部の住所)」ともオーバーラップさせています。植物学的には少々不正確ですがこれは愛称ということでお許しいただけないでしょうか。誤解を防ぐためにあるいは「せこいあ逝信」とするのが良いのかもしれません。ちなみに「セコイア」はネイティブ・アメリカンのチェロキー族の酋長の名前に由来するそうです。前述の浅井氏によれば「太閤秀吉ゆかりの豊国神仕のある中村公園に、1955年ころメタセコイア6木ほどとセコイア2本ほどが植樹されました。メタセコイアは元気ですが、セコイアは台風などの強風で枝が折れたりして、元気とは言えませんが、枯れずに育っています。」とのことです。セコイアとメタセコイアについての皆さまのご意見をお待ちしています。
前同窓会長 巽 二郎
下の道路から農学部玄関に至る階段を上りきった正面の空間にソテツが植えられており,その脇の石碑に農学部同窓会創立十周年記念と読めます。どうやらこのソテツがメタセコイアに次いで2番目に古い記念樹のようです。同窓会創立十周年が昭和41年に相当しますから,おそらく農学部の東山移転と同時に植樹されたのでしょう。植えられた頃から40年近くを経て,ヤマモモやタイサンボクなどの常緑樹に取り囲まれ,その陰に隠れて見落としそうなくらいです。しかし冬になるとコモに巻かれた姿でその存在が浮かび上がります。ソテツが植わっている空間は事務棟と講義棟の渡り廊下に面し,斜めに横切る細い通路もあって学生の往来が激しい場所です。また来客が急な階段を登りきって最初に目にする眺望の良い場所でもあります。このように農学部玄関周辺のなかでソテツ庭はいわば要衝を占めており,記念樹としては申し分のない場所を得たということです。ところがこの庭は十分活かされているようには見えません。木が込み合いすぎたために庭を巡ることができなくなり,また外観も魅力に乏しくなったためでしょう。みんな庭の存在に気づかすに通り過ぎます。記念樹を中心にこの空間をアメニティーあふれる小ガーデンとして整備しなおし,皆に一層愛される存在として復活させることを提案します。
さて,懸案であった農学部同窓会の愛称は「セコイア会」となりました。メタセコイアとセコイアは異なるという植物学的な観点からの重要なご指摘がありました。いうまでもなく「セコイア会」の愛称は記念樹のメタセコイアが発想の原点ですが,それを紹介した,学名とは別物のいわば「SEKOIA」であるとご理解していただき,末永くかわいがっていただきますようお願いします。
なお,私の旧友でツリークライミング活動家・コラムニストのジョン・ギャスライト氏によりますと,静岡県のとある河の中流に50年生程度の太いセコイア(常緑)が10数本生えている場所があるそうです。もちろん植えられたものです。セコイアの大木が日本に生育しているというのは珍しいことだと思われます。彼はこの大木に登りましたが,残念ながら詳しい種類についてはわからなかったそうです。なおジョン・ギャスライト氏はこの4月から博士後期課程の社会人学生として生命農学研究科に入学の予定です。
前同窓会長 巽 二郎
名古屋大学農学部の歩みを紐解くと、その歴史とともに成長を続ける記念樹、メタセコイアの存在が記されています。農学部30年史、50年史にもその記述が見られるこの樹木は、1955年、農学部第1期生によって安城キャンパスに植樹されました。当時、その樹高はわずか1メートル程度でしたが、時を経て、1966年には樹高約10メートルに達し、東山キャンパスに移植されました。
2001年には、3本のメタセコイアはそれぞれ胸高直径63cm、48cm、48cmと記録され、現在も立派に成長を続けています。2024年に計測したところ、南側の@が80cm、北側のAが61cm、東側のBが60cmとなっており、その成長ぶりは、農学部の発展と共に歩んできた証です。
「記念樹は今」のその1からその4にわたって記されている通り、メタセコイアは日本人が命名した貴重な木であり、1948年に現生種として初めて同定され、そのわずか7年後には農学部の第1期生が記念樹として植えたものです。和名は「曙杉」、その花言葉は「平和」であり、まっすぐに、そして長寿を象徴するこの木は、農学部第1期生の知識と情熱の象徴でもあります。
このメタセコイアは、これまでのすべての卒業生たちを見守り、見送ってきました。長年にわたり、私たちの歴史と共に生き続けるこの木々に込められた意味を、ぜひ名古屋大学にお越しの際に感じていただければと思います。そして、ぜひ、メタセコイアに「久しぶり」とご挨拶を。
同窓会幹事長 稲垣 哲也