神代のこと,あるいはボケの昔話
横山 昭

今日は我が繁殖学教室開設50周年記念にお集まり下さって本当に有り難うございます.この50年の中の40年近くをこの教室で過ごした私として,この会にとにかく元気で出席出来たことは大変に嬉しいことです.皆さん方の青春の一時期を共に過ごす事が出来た幸せと,そんな皆さんと再会出来たことの幸せとをかみしめています.

50年が長いか短いか.これは結構悩むんですまね.私は今まで,ここで何周年とか,来年には21世紀に入る.なんてのをあまり気にしなかったんです.今日に続く明日があるだけで特別にかわりがあるわけじゃない.なんてちょっと斜に構えた見方をしていました.でも,年をとってきますとね,今日に続く明日,今年に続く来年が今日や今年と全く同じである保証がないと云うことに気がつきました.去年の今頃の私と,今の私とを較べれば,今年は明らかに衰えている.来年にはどうなっているか判らないんだ.そうなればある節目,節目を大事にしなければいけないと思うようになったのです.

繁殖学教室の50年は私にとっては短いものでした.1952年10月安城に赴任したのもつい昨日のような気がします.だけど,一般的に50年といえば長いですね.その上,この50年前と云うのは前世紀ですよ.前世紀半ばの話なんですごいと思いません?

私が安城に来たのが1952年.この50年前といえば,1902年.丁度,イギリスのBayliss & Starling が,十二指腸の粘膜から騨液の分泌を促す物質の存在を証明した年です.この物質を彼らは,セクレチンとよび,このように血液により運ばれる情報物質をホルモンと呼ぼうと提唱しました.また,この2 年前,1900年にはメンデルの法則の再発見がありました.其のどれをとってみても,1952年には,遥か普のほとんど神代の話のように思っていました.私の子供の時,教科書や大人達の話に,日露戦争の話がでてきました.その時どうしてそんな昔の話をするのだろうと思いながらきていましたが,其の日露戦争だって,1904年のことなのです.高々30〜40年前のことです.だから,今日農学部創設の時の話をしたって,今教室にいる若い方々にとっては神話の世界だろうと思います.でも,温故知新とか,明鏡は形を照らすゆえん,故事は今を知るゆえんとか云いますからちょっと辛抱して開いていて下さい.

いま,Bayliss & Starlingの名前を出しました.そこでちょっと話を横道にそらして生殖腺ホルモンの存在に誰が気がついたかと云うことをお話ししておこうとおもいます.ご存知のことだとは思いますが,生殖に関するホルモンの研究を進める我が繁碕学教室の原点とも言える研究です.

Goettingen大学にBerthold,A.A.という教授がおりました.彼は医者でもありました.彼は,雄鶏を去勢して,羽装やとさかに変化が起こること,この変化は精巣を移植することで元に戻すことが出来ることを報告しました.今で云うreplacement therapyをやったわけです.其の報告の題名はTransplantation der Hodenです.1849年のことです.彼はこの結果を,精巣から血液中に分泌された物質が雄鶏の二次性徴を維持し,性行動を発現させるのだと考えました.勿論,去勢によってどんな変化が起きるかは入を含めた動物 (家畜,家禽) でよく知られていました.アリストテレスも詳しく記載しています.また家畜を飼う習慣のある民族の聞では,去勢をすることで,雄が扱いやすくなること,肉が柔らかくなることを知っていました.しかし,其の理由をはっきりさせる始まりがBertholdの実験だったのです.血液中になにかある物質が分泌されそれが生理的な作用をするというのはBayliss & Starlingの実験につながり,ホルモンと名付けられたのは先ほどお話しした通りです.

ここでさらに横道に入ります.Hodenと云うのは私が覚えた最初のドイツ語なのです.18才でした.旧制姫路高等学校に受かりました.
高等学校の受験の下見のため,今のJR,昔の国鉄山陽線で大阪から姫路に向かいました.細江君は良くご承知のように,山陽線は,加古川をでると,宝殿,曽根,御着,姫路と止まります.今ではもう少し駅の数が増えているかも知れません.とにかく,宝殿駅について駅員がホーデン,ホーデンと呼ぶのを聞いて父親が其の意味を教えてくれたのです.

本論に戻ります.
Bertholdはこの仕事を続けることはありませんでした.なぜだか判りません.
小説的に云えば,精巣からでる物質が性行動を引き起こすということが世の中の精力減退に悩む人々の関心を誘ったことはあったと思います.それを試してみようとしたのが,Brown-Sequard というフランスの医者でした.1889年,72才でした.彼は,犬精巣の水抽出物を皮下注射して,その後に起こった自身の精力若返りの有り様を報告したのです.この報告が評判になってパリの雄犬が次々いなくなったとか.この辺の事情は筒井康隆氏の"ホルモン"という小説に詳しく書かれています.今で云えばパイアグラ騒動が100年前に起こったことになります.
今の知識からすれば,精巣の水抽出物のなかに雄性ホルモンが入っているとは考えられません.Brown-Sequardの云う精力回復も多分に自己暗示的なものだったと思います.

そのうちにまた30年近くが立ちます.1927年,Aschheim & Zondekは妊婦の尿中に今で云うhCGを見出し,後にAschheim-Zondek法として知られる妊娠診断法を確立しました.1927年は私の生まれた年です.
その後,1937年には,プロラクチンがほぼ純粋に近い形で下垂体から抽出されました.同じ年に,イギリスのHarris,G.W.はウサギの視床下部を電気刺激して排卵が起こることを報告しました.こんなことがきっかけになって,今で云う視床下部一下垂体ー性腺軸の研究が加速度的に進んだことは皆さんのご承知の事でしょう.
Guillemin とSchally のそれぞれのグループは,1969年TRHの,1971年にはGnRHの構造決定をいたしました.私などは,この発見をまさに同時代のものと受け取っています.今でも,GuilleminとSchallyとが,口角泡をとばして学会でやりとりしたのを覚えています.

でも,これももう30年も前のはなしです.今の若手研究者の方々にとって,この発見は,我々が研究活動を始めた時にAschheim & Zondekの発見に惑じたのと同じくらいの歴史的な感覚をお持ちになるのではないでしょうか.

つい講義をしてしまいました.何故むかし,むかしの大昔の話をしたかというと,1950年の時代でも,若い者はせいぜい25〜26年くらい前のことにしか関心を持たないと云うことを云いたかったのです.1950年以後の研究の進み具合から考えれば,今を生きている人達にとっては,10年前のことさえはるか昔の歴史的事件と思われるでしょう.だから,今の若い人達が古いことを知らないなんて云ってはならない.かつて若者であった我々だって古いことは知らなかったんだ,と云うことを云いたいのです.そうなれば,いよいよもって農学部の草創期の話は神話です.

そんなことを云いながら,まだ神話を続けます.

1952年当時,日本全体で見ればまだ食料不足でした.特に動物性蛋白質の不足は深刻で,その十分な供給が畜産に課せられた急務でした.なにしろ,肉牛,役牛を含めて120万頭,乳牛20万,ブタ60万,産卵鶏1600万羽.役・肉牛は別にして,今のだいたい10分の1の家畜・家禽しか日本にいなかったのですから.そこで,増産計画が立てられていました.其の増産計画と同時に,其の計画を支える技術者の養成もしなければなりません.戦後大学の農学部に獣医に代わってあるいは獣医と共に畜産学科が作られたのです.私の恩師,佐々木清綱先生,名大農学部初代学部長増井清先生等の理念によったものです.旧制帝国大学では,1947年に東北大学に,1951年に名古屋大学に農学部が設置され,それぞれに畜産学科が置かれたのです.なにしろ,新しい理念によって作られた学科です.そこに集まってきたものは,皆希望に燃えていました. それに,名古屋大学農学部はそのものが全くの新設であり,教授にも若い方が多かったためか,古い因習にとらわれず非常に自由・闊達な雰囲気がありました.戦後の時代風潮の反映と云えばそれまでですが,悪く云えば,下克上的といえるかもしれません.この雰囲気が,名古屋大学農学部の活力の源になっていたように思います.中条先生はよく,大学とは "Menschenschule" だとおっしゃっておられました.このドイツ語が本当のドイツ語かどうかは知りません.恐らく,先生の本意は "大学とは個人が自分を磨き,個と個が互いに尊重しながら切磋琢磨するところ" とおっしゃりたかったのだと思います.私も,この教えは,繁殖学教室の伝統として伝えられるべきものと考え,そのための努力はしたつもりでおります.研究者は自由であり,研究の場では皆平等である.

さて,1952年10月安城の農学部に赴任した私は,中条先生と今後どんな方針で仕事を進めるかをいろいろ議論しました.その議論の中で,とにかく生産性を上げることを目標にしようと云うことになりました.生産性と云っても乳,肉,卵がある.どれをとるか,肉は歴史的に京都だ.東北は卵子の研究から,家畜数の増加をねらうらしい.残るのは乳生産と卵の生産だ.それぞれの生産をあげるためにどんなアプローチがあるか.育種的?,育種学教室がある.栄養的?,北海道大学はこれに強いし,名古屋にも栄養・飼養学教室が出来る.それでは生理学的に行こう.(名古屋には,最初衛生学教室の設置が計画されており,生理学そのものの講座の設置は予定されていなかった) 中条先生は,前任地の宮崎で就巣鶏の頭部に電気刺激を与え就巣性を除く事に成功しておられた.また就巣牲は,当時の養鶏業界では大きな問題のひとつだった.これを除けば,鶏の卵の生産性をあげることになる.一方,私は乳腺の発育と機能の内分泌支配に興味を持ち,学生時代から内分泌学の勉強をしていた.
それでは,就巣性について内分泌的方法で攻めてみよう.就巣の発現する仕組みを調べれば,それを止めることが出来るはずだ.
私は,乳腺の仕事を,学部,大学院と続けてきて,面白くなっていたところでした.だから,其の仕事を中断して鶏に切り替えるつもりはありません.名古屋でも乳線の仕事を続けられると思って,東大で使っていたマウスを連れて赴任したのですから.それに,就巣の発現にプロラクチンがからみそうだと云われている.プロラクチンなら乳腺とズバリ関係する.鶏と哺乳類の生産性の仕事を,プロラクチンを接点としてやっていけるのではないか?そのことを,中条先生に話すと "おお,そうか.それなら,君は当分乳腺の仕事を続けたらいいよ" とおっしゃって下さった.この当分という言葉が,結局私の停年までを意味したことになりました.ただ,次に採用する人には鶏をやって貰うと云うことになり,田中先生の登場となります.その後今井先生も加わり,輝かしい産卵生理学あるいは産卵内分泌学の業績が積み上げられたわけです.

田中先生には,研究以外にも素晴らしい隠れた功績がありました.これは皆さんあまりご存知ないと思いますし,ご本人もおっしゃらないと思いますので,私がお話ししておきます.
1952年,名古屋大学農学部の生活環境は極めて悪く,特に独身者に対する配慮など全くと云っていいほどありませんでした.宿舎はない.学部に食堂はない.安城の町には食堂はありました.朝はともかく,昼,夜そこへ食べに行くと云うわけには行かない.自転車が通勤手段だったし,町まで大学から10分くらいかかります.農学部は,田圃の真ん中.酒屋へ3里,豆腐屋ヘ2里という環境です.雨が降らなければともかく,雨が降ったらどうしようもない.また,冬は吹きさらしの田圃の中の道を自転車で,町まで行く気にならない.夜遅くまで仕事をしていると喰いはぐれる.この時の畜産の独身者は藤岡 (生体機構学),野沢 (家畜育種学),横山です.この3人は極めて無精者.自炊する事なんて面倒なこと考えなかった.そこで,安械の町の仕出し屋と交渉して,弁当を届けて貰うことにしました.仕出し弁当ですから昼,夜ほとんど同じ中身.それが毎日続くのです.我々3人は其の弁当で何とか生き延びていました.同じ中身でも毎日届けてくれるし,喰いはぐれがない.食べ物を作るより我慢した方がよい.戦時教育を受けた若者の発想です.
1953年に赴任された田中先生は,しばらくは不精3人組につき合って暮らしていましたが,その内,自炊を始められたのです.彼は,料理が得意でした1954年,今井先生が着任.私は結婚をして独身組から脱退.新たな独身3人組が発足.田中先生が献立を立て,野沢先生が町まで買い物に行く.田中先生が料理を作る.今井先生の役割ははっきり覚えていませんが,後片づけだったのではないでしょうか.だから,野沢先生と,今井先生は田中先生の料理力によって研究成果をあげられたとも言えるわけです.昼飯はどうしたかって?この頃には,農学部にも独身者が増え,また学生も進学してきたので,食堂が昼飯の営業を始めていたたのです.
田中先生畜産学への隠れた貢献です.

研究環境だって良いわけがありません.畜産が入ったのが新しい研究棟と云っても木造の安普請です.人が歩くだけで床が揺れる.其の揺れで,机の上の化学天秤なども揺れる.使うのは大変です.遠心機を回すと床が振動して,遠心機が床の上を動き出す.これは,繁殖の研究室が幸いにして一階だったので,木の床をくり抜きコンクリートの台を作ることによって解決しました.最初の頃は冷蔵庫もなかったのです.1950年代には,いまどこにでもあるような冷蔵庫は,国産ではなく,輸入品でした.値段も高く,それに外貨の割り当てとかで,そんな物を買うなどと云うことは考えにも上らない.研究室で使うのに手頃な大きさの物を国産で探すと,低温恒温槽と言ったか低温恒温機と言ったか冷蔵庫としてではなく,定温機として売っていました.それを買いました.ところが,温度調節に,バイメタルではなく水銀を使っている.木の床では震動のためしょっちゅう誤作動を起こすのです.また床を切り抜いて土台を作りました.その他,いま思えば,笑い話になるような事も真剣に対策を考えたものでした.

当時は,規則その他大変おおらかでした.多くの独身助手は,げた履き,自転車通勤.
独身助手だけでなく,教授の中にも,背広でげた履き首に手ぬぐいを巻いて,何時も傘をもって出勤と云う方もありました.
夏になると勤務時間中に,朝から,蒲郡や,三河三谷などへ泳ぎに出掛ける.帰って来て,夜仕事をする何てことをしていました.ウィークデイの午後,アメリカ人に来て貰ってこれも勤務時間中に英会話のクラスを開いたりもしました (首謀者は,水産学田村先生).
また,岡崎まで,自転車で映画を見にでかけたりしたこともありました.国道1号を自転車で走ったのです.車が少なかった1950年代はじめだから出来たことです.

私の赴任当時,教室員は,中条先生,それに小川君.私が加わって3名.小川君は,中条先生の鶏の世話と私のマウスの世話を実に良くやってくれました.労働環境だって決して良くはない.当時は,どこもひどかったから,あまり目立たなかったけれど今だったら大変な問題になったかも知れません.とにかく,そんな中で,マウスの箱作りから始めました.その他,文献カードいれ,硯箱etc.etc.木の文具類.何でも木製のものは作ってくれました.もしかすると今でも小川製作所製のものが残っているかも知れません.小川君には,ずいぶんひどい文句を言った事もありました.今でも "あれは許せねー" と思っていることがあるかも知れませんが,前世紀の半ばの話.水に流して下さい.

学生が来れば,学生生活の不満もたまる.畜産などは,学生数も少ないし (第1回生4名) 教官も若かったし,前にも書いたとおりの安城の農学部という立地条件.朝から晩まで顔をつき合わせています.
コミュニケーションも悪くはないので何も問題はないと思っていました.職員,学生共々,格好良く云えば,新しい畜産学を作ろうと理想に燃えていたはずでした.ところが,中条先生の講義のボイコットが起こったのです.これも新たな農学部を作るための情熱の発露だったのかも知れません.このことも繁殖学教室の裏面史として残して置きましょう.ボイコットの理由はどうもはっきりしません.講義がつまらないと云うことらしいのです.私は,学生実習のため,どんな講義をされるのか,実習で話すことと講義とが食い違わないように中条先生の講義を聴いていました.つまらないとは思わなかったので,其の理由は当事者の方々に聞くしかありません.

この50年間,そのうち私が在職していた間の公的生活の大事件と云えば,伊勢湾台風と東山移転だと思います.
1959年9月26日.伊勢湾台風によって農学部は,ほとんど壊滅的被害を受けました.偶々,私はこの年の9月22日イギリスへ出発.台風の事はイギリスで知ることになりました.
だから,この被害の状況や,其の後の修復への皆さんのご苦労を全く知らないのです.私が安城にいたからと云ってどれほどのことが出来たか判りませんが,この時に安城にいなかった事,復旧を手伝えなかったことは今でも申し訳なく思っています.田中,今井両先生.太田さん,その時の在籍の職員,学生の皆さんのご努力とご苦労への感謝は決して忘れません.
もう一つの大きな出来事.東山移転.これも,東山校舎の設計が始まった頃に,アメリカへ出掛けてしまいました.だから,新しい建物の設計も含めてこの移転の計画にもあまり参加はしていないのです.こちらの方は,手紙で意見も言えるので台風の時とは少し違いますが,今井さん太田さん,小川さん,丹羽さんにご迷惑をかけたことには違いありません.東山の新しい建物のトイレを男女別にしたのは恐らく国立の建物では始めてではないかと思います.これは多分,私を含めた留学帰り数人の意見が採用された結果だったと思っています.

東山移転後は,私にとっては近・現代史になります.学生数もふえたから,いろいろな事件が多くの人の記憶に残って,それが語り継がれることでしょう.特に,繁殖学教室の生き字引,丹羽さんの存在を忘れることは出来ません.教室の歴史が細かく残っているのは,彼女が教室の出来事を丹念に記録していたからです.あらためて丹羽さんに感謝しなければなりません.私は,主に丹羽さんが現れる以前の神代のことを語部としてこの機会にお話をしました.

来し方を振り返るとつく尽く出会いの不思議さ,大事さを感じます.
私が農学部畜産に進もうと考えたのは,旧制姫路高等学校で私の指導教官であった楠正貫先生が,東大の内藤先生 (当時助教綬) の姫高時代の指導教官でもあり,我々に畜産へ進むことを奨めて下さったからでした.内藤先生のお陰で,内分泌学に興味を持ちました.
内藤先生の研究室の教授は佐々木清綱先生.佐々木,内藤両先生の推薦で名古屋大学に就職.そこで中条先生と出会い,前にお話ししたような経緯で哺乳類の仕事を続けることが出来たのです.それからもここにお集まりの方々との出会いがあり,今日のような楽しい集まりを持つことが出来ました.大変に有り難い事と思っております.

ただ残念と云うべきか申し訳ないというべきか,それは応用学としての繁殖学研究の成果を現場へ還元出来なかった事です.一つだけうまく行ったのがホルモン処理による空胎牛の泌乳誘起です.この仕事は,太田先生の指導で大橋透君が卒論実験としてやったものです.農場の牛乳の脂肪率が上がり,生産した牛乳が商品として売れるようになったとおおいに感謝されました.もっと,県の試験場や,家畜衛生保健所などとも連絡を取って畜産現場にも関わるべきだったと反省しています.

最初に申しましたとおり, 50年というのは,私にとって長いようでまた短いものでした.今私が考えるのは,この50年の歴史がこれからの名古屋大学農学部における家畜繁殖学の研究・教育にどう生かされるのかと云うことです.昔ならば,講座があって ー講座制の善し悪しは別問題としてー 其の講座の伝統として今までの歴史が積みみ重ねられていき,講座としての学問的継承がありました.
大学の組織も大きく変わるようです.独立行政法人化でこの様な学問的継承はどうなるのか.誰も経験のない組織の中で,どのように研究を続け,学生を教育するのか.研究を社会にどのように還元するのか.大きな問題が山積みされていると思うのです.
幸いにして,前多,束村,上野山さんが教官として,また丹羽さんが組織は違いますが技官として,かつての家畜繁殖学教室を引き継ぎながらいろいろな樟害を乗り越えて教育と研究に着々と業績を積み上げています.
彼ら,彼女らの今後の健闘によって,我らが繁殖学教室の火が絶えることなく続くことを祈りながら私の話を終わります.

有り難うございました.

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