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芦田 淳先生を偲ぶ

吉田 昭 (名古屋大学農学部名誉教授)

 名古屋大学農学の創設期から長い間栄養化学講座の教授を勤められ、農学部長、さらに学長として名古屋大学の貢献に大きく貢献されました芦田 淳先生は平成13年7月11日、急逝心筋梗塞のためにご逝去されました。享年87歳でありました。

 そのわずか2、3週間前の日曜日に私はたまたま地下鉄の中で先生にお会いいたしました。先生は本屋の袋を手に持ち、いつもと変わらぬ元気なご様子で、短い期間ではありましたが楽しくお話させて戴きました。そして、これが先生にお目にかかる最後になってしまいました。7月11日の午後、先生の訃報に接しましたときも、その時のお元気なお顔が思い出され、全く信じられない思いでありました。

 私が先生にはじめてお目にかかりましたのは昭和28年春のことであります。先生が創設間もない名古屋大学農学部の食品化学及び栄養化学講座の教授に就任され、その助手として採用して戴くため、夜行列車で国鉄安城駅に着いた時のことでした。先生は自転車を引いて、当時まだ小学生でいらっしゃいましたご子息とお嬢様を連れて安城駅に出迎えてくださいました。今から50年近く前のことになりますが、私はその時のことがつい昨日のように鮮明に思い出されるわけであります。

 先生は大正3年1月1日、大阪でお生まれになり、昭和13年3月、東京帝国大学農学部農芸化学科をご卒業、大学院に進まれ、生物化学研究室でご研究の後、大阪帝国大学産業科学研究所を経て昭和28年5月に名古屋大学農学の教授にご就任になりました。講座名は後の栄養化学講座に変更になりました。当時の名古屋大学農学部は農業が盛んで、日本のデンマークといわれていた田園都市安城市の郊外にありましたが、建物は粗末な木造建築で暫くの間は実験台が一つしかない小さい部屋で、実験台の戸棚に電熱器を入れて栄養実験のためにラットを飼育するという状況でありました。先生と二人で籠をぶら下げ、名古屋市内の動物屋にラットを買いに行ったこともありました。

 このように現代の若い研究者や学生の方々には想像もできないような困難な状況の中で名古屋大学でのご研究を始められたわけですが、先生は名古屋大学農学部に新しい栄養学のスクール(学派)を作るのだといわれ、大きな理想と強い情熱を持って研究を進めておられました。戦後10年が経つか経たないかの時期で、戦争で閉ざされていた外国の情報が漸く入るようになり、農学部の図書室も新しい外国の雑誌が整備されてきましたが、戦争中の文献を調べるために不十分で、名古屋市内にあったアメリカ文化センターに出掛けなければならないこともしばしばありました。そんな時に先生は借り出した雑誌を何冊も抱え、近くにあった音楽喫茶に入り、ベートーベンやモーツアルトを聞きながら文献を読むことも楽しんでおられました。

 先生は従来の栄養学とは異なった観点から栄養素の摂取適量を求めることに強い意欲を持っておられました。丁度、生化学や酵素化学が非常な勢いで発展していた時期であり、アイソトープを用いる代謝研究が日本でも漸く可能になりだした時代でありましたが、先生は当時の最先端の知識と技術を栄養学に導入し、数々の重要な成果をあげられました。たんぱく質の摂取適量について、摂取たんぱく質と体内酵素活性や体たんぱく質の代謝回転との関係を解析され、新しい角度からたんぱく質の摂取適量を求める基礎を作られたこともその例であると思われます。食品たんぱく質へのアミノ酸補足に関する基礎研究としては、低たんぱくレベルにおける必須アミノ酸の要求量パターンを検討するとともに、アミノ酸添加による障害作用として重要なアミノ酸インバランスの現象に着目し、その生成機構や代謝変動の解明にも寄与されました。また、栄養素がエネルギー源や体成分の素材として必要なばかりでなく、体内代謝の調整にも重要な役割を有するという栄養素機能の二面性にも着目され、必須アミノ酸による肝アミノ酸分解酵素活性調節の機構を解明されました。これらの研究の一部はAcademic Pressから発行されているモNewer Methods of Nutritional Biochemistryモに要約され、広く世界の栄養学研究者に読まれ、度々国際学会にも招聘され、1996年には名誉あるアメリカ栄養学会のフェローにも迎えられておられます。また、先生が名古屋大学にご赴任の頃に出版されました“栄養化学概論”は不朽の名著として現在も栄養学の学徒に読み継がれています。

 先生は何事にも極めて積極的であり、即実行される方でありました。中央アジア乾燥地帯における栄養適応に関する研究のためには自らアフガニスタンに赴き、栄養改善の実践的な面でも大きく貢献されました。また、資源調査会委員・食糧資源部会長として食生活に関して広く用いられている四訂日本食品標準成分表作成の責任者として大改訂の事業を完成されました。

 学会にあっては日本農芸化学会会長、日本栄養・食糧学会会長などを歴任され、学会の発展に指導的役割を果たされました。

 当然のことながら、先生は多くの賞を受けられました。昭和38年 日本栄養・食糧学会武田賞、同39年、日本農学賞・読売農学賞、同52年 紫綬褒章、同56年 日本栄養・食糧学会功労賞などを受賞され、同61年には勲一等瑞褒章受章の栄に浴されました。

 先生は二期にわたって農学部長を勤められ、農学部の名古屋東山地区への移転にも大変ご努力されました一方、農学部付属生化学制御研究施設(現 名古屋大学生物分子応答研究センター)の設立にもご尽力され、施設長としてその発展の基礎を築かれました。

 昭和40年前後は全国的に大学紛争の嵐が吹き荒れていましたが、名古屋大学においてその最も激烈な時期であった昭和44年に先生は学長にご就任になりました。大学の養育、研究を守るための先生のご苦労は筆舌に尽くし難いものであったと想像されます。

 高配した大学にあって、日夜学長としての激務に忙殺されながら先生は非常な孤独と虚しさを感じておられたのではなかったでしょうか。当時、私は徳島大学医学部栄養学科に在職しておりましたが、そんなある日、先生はふらりと徳島にお見えになり、小豆島にご一緒させて戴きました。瀬戸内の静かな海と緑の潮騒のなかで、大学の学問の将来について深い思いに浸っておられた先生のお姿が印象的でありました。

 先生は若者を愛し、若い研究者の育成に大変力を注いで下さいました。安城での農学部の創設期は日本の研究者が海外で学ぶことはまだ極めて困難な時代でありました。先生のご令室は戦前、渡米での生活が長く、外国語が大変ご堪能でいらっしゃいますが、先生は若者にご自宅を解放され、英語を学ぶことをお許し下さいました。こうして間もなく、若い研究者は次々と海外留学に送り出して下さいました。

 先生はご研究に強い情熱をお持ちになると共に、スポーツや音楽、旅行、そしてお酒も大変お好きでした。安城時代、農学部の野球の試合ではいつもキャッチャーとして活躍しておられました。研究室旅行の際には酒を酌み交わしながら夜を徹して学問、社会、政治について議論をすることが多かったように思います。われわれも先生を囲んだお話を通して学問以外にも多くのことを学ばせて戴きました。先生の偉大さはその学問的ご業績と同時に、何人をも惹きつける大きな人間的魅力であると思います。

 しかし、もはや、先生とお話をすることも、議論することもできなくなりました。寂しさ、悲しさで一杯であります。

 ここに先生のご業績、ご遺徳を称え、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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